紀州梅栽培の始まり
和歌山県では、江戸時代に、紀州藩田辺領において農民がやせ地は免祖地となることから、そこに梅を栽培したことが本格的な梅栽培の始まりと言われています。
また、田辺領(紀州藩附家老 安藤直次)がやせ地を利用した梅の栽培を奨励し、保護政策をとったため、田辺、みなべ地方を中心に広がったとも伝えられています。
江戸時代中期には、紀州の産品として江戸に木材、木炭、みかんとともに梅干しが送られていましたが、そのころの梅は「やぶ梅」と言われ、現在栽培されているものとは比較にならないほど品質は劣っていました。
明治初年頃から梅干し製造業者も出現し、明治10年代にはコレラ、赤痢などの流行があったことなどから梅干しの需要が多くなっています。
栽培面積の増加
梅の栽培が急激に増加したのは、明治40年以降です。これは、日清・日露戦争による軍用食としての梅干し需要の増加によるものでした。また、第二次世界大戦中にも奨励されたこともあり、生産量が急増したものの、第二次世界大戦末期から昭和22年頃までは、食糧難のため、梅の木を伐採してサツマイモ等を栽培したことから、梅の栽培面積が著しく減少しています。戦後、社会経済の復興とともに、果実類の需要も増加し、梅の栽培も昭和30年代以降は急速に伸びています。
紀州梅の発展
その後、優良品種の「古城(ごじろ)」「南高(なんこう)」の出現と高度成長期に入り、食生活の多様化による梅の需要の伸びとあいまって、昭和35年頃からさらに、栽培面積が増加しました。
一時、梅干し需用の伸び悩み等で、栽培面積増加傾向も横ばいとなっていましたが、昭和56年頃より自然食品や健康食品ブームによって梅干しが消費者に見直され、価格の上昇と面積の増加が図られており、質・量ともに日本一を誇っています。
また、それとともに、加工面においても梅干し、梅酒だけでなく、ジャム・エキス・ジュースと多方面に活用され、ブランド「紀州梅」の産地として発展を遂げてきているのです。